元麹町中学校の校長(現在は学校法人堀井学園 / 横浜創英中学・高等学校の校長です)である工藤さんとお話をしたい!と思い、熱い想いをぶつけてみました。

これは自分のNPO法人教員支援ネットワーク T-KNITの正会員であるメンバーが「工藤さんとお話したよー」という話から、いつかは話してみたいと思っていた人です。

これからコミュニティ・スクールを推進するにあたり、自分のこの知識や、考え方の方向性は合っているのか?というのが課題でした。

というのも、コミュニティ・スクールとして見えている像はみんな一人ひとり違っているからです。

なので、学校の働き方改革を続けている人たちにお話をしたほうが早い!ということで話してみたくなったのでした。

ちょっとドギマギしましたが、工藤さんもたくさんコミュニティ・スクールのことを話してくださいました。

普段は人前で話さないようなことまで話してくれたようなので、あまり詳しく話せないのですが、あくまでも自分の中の感想として感じたことを書きます。

今のままではコミュニティ・スクールはうまくいかない

いきなり衝撃の内容から始まりましたが…、僕もこの意見には同意です。
その理由は2つあります。

地域のボランティアを使う制度だと勘違いをしている

これは本当に思うところで、コミュニティ・スクールを地域ボランティアをどのように使うか?という制度だと勘違いしている人ばっかりなのです。

というか、そういう人しかいない。

行政や、学校も「地域ボランティアを使っていますからコミュニティ・スクールは必要ありません」と言ってしまう始末。

つまり、誰もコミュニティ・スクールの本質を理解していないのです。

コミュニティ・スクールの目的は協議制による学校改革です。

地域ボランティアの活用はオマケです。

なんでこうなってしまったのか?というと、一番最初の2004年にコミュニティ・スクールの構想が出た時に「地域人材を活かして行きましょう!」と言っていたのです。

それがなんと『いつの間にか』、2017年の頃に「地域と一緒に学校運営をして学校の改革をしましょう。」という目的に変わっていきました。

大問題としてあがっているのは、いつの間にか、同じ名称で、目的が変わってしまったということです。

教育に熱心な人ほど、コミュニティ・スクール=地域人材を活かして先生を楽にすると考えがちですが、実はこれは昔のコミュニティ・スクールの話なのです。

この同じ名称なのに目的が違うことによってスレ違いが起こります。だからなぜか意見が食い違うってことが往々にしてあるのです。

マネジメントをする俯瞰的な視点を持つ人物が少なすぎる

学校を改革するために学校運営協議会を進めるのですが、誰が責任を持って動かしていくか?というのは非常に難しいところです。

学校に関わっている人が当事者として関わるというのがすごく大切なのですが、校長は2〜3年で変わってしまうし、地域は学校を動かせるなんて最初思っていない。

そして、立場を越境して、いろんな視点を見ようって人はなかなかいません。

それこそ、0から1の状態にするまでが一番パワーかかるところなんだなって思います。

それこそ粘り強い『対話』が必要なのですが、その対話の『軸』を決めなければ対話にならなかったりします。

ただのクレームを言われて、学校でやることが増えて終わる。

誰かの意見を尊重しあいすぎてしまい、結局、全員の意見を尊重するから決まらない。動かない。

これが全国で起こっている現状です。

大事な軸として据えられがちなのが『挨拶』、『掃除』など…手段になりがち。

地域の重鎮たちを集めるとぜーーーったいに出てくるのが『挨拶をもっと増やしたい』です。

挨拶は大事なのですが、理念として据え置くには弱すぎます。

みんなが挨拶するためにはっていうと、挨拶したくない子を取り残してしまうのです。

たとえば、不登校の子にとって挨拶されるというのは恐怖です。

できる限り、誰にも会わないで、声をかけられずに学校に行きたい。挨拶は良い時もあるし、悪い時もあるなんて想像できない方が多いのです。
※実際、僕も不登校の時は挨拶されるのは怖かった。

大事な軸は『誰一人取り残さない』で、『全員が目指したいもの』でなければなりません

挨拶や、不登校を軸にすると、手段を目的化してしまうのです。

どうしたらコミュニティ・スクールはうまくいくのか?

工藤さんの話を聞いた上で、本質を捉えたコミュニティ・スクールは効果があると思っています。

非常に険しく、難しい道ですが、絶対にできると思うのです。というか、できなければ日本の教育はたぶんじゃなくて、終わります

どうしたらできるか?を考えたのですが、大まかに3つ大事かなと思います。

コミュニティ・スクールは『何のために』を粘り強く対話する

まぁ、いつも言っていることですが、コミュニティ・スクールは学校のそもそも論を問う制度です。

宿題はやったほうが良い!→何のために?
先生の担任制→何のために?
挨拶をしてもらおう!→何のために?
テストをしっかり学力あげよう!→何のために?

もう上げればキリがないのですが、この『何のために』をとにかく対話し続けるしかないと思います。

学校というのは『子どもが社会に出る前に、社会で役立つ学びを得る場』であるのは間違いないと思います。

なので、対話を繰り返した先に軸として落ち着くのは『自律できる子』や、『創造できる子』、『調和できる子』などニュアンスは少し違えど、育む児童像は似通ってくるものです。

でも、それを実現するために、今の制度じゃダメだよね!ってことを考え、行動の一つ一つを本気で見直していこうよ!と当事者たちが「私たちがやるんだ!」と考えられるように意識をもたせることが本当に大事だと思います。

ボランティアに予算をかけるのではなく、協議に予算をかける

予算というのはパッと見「変わったね」と認識できるところにつけがちです。つまり、挨拶や、花壇の植え替え、絵本の読み聞かせなどです。

たしかにそういうのがあっても良いと僕は思います。

でも、本当に大事なところはそこじゃない。

本当に予算をつけなければいけないのは協議(つまりは人材育成)です。

つまり、当事者たち(先生たちや、学校に子どもを通わせている保護者)にいかに参加してもらって「私たちも学校(教育)を変えていけるんだ」と認識できるかがポイントです。

全国のコミュニティ・スクールの好事例としてボランティアの話ばかりピックアップするのはやめましょう。余計に協議に予算をかけにくくなります。

外部評価をやめて自己評価にする

コミュニティ・スクールといえば、地域から評価をもらうもの…と考えるのはやめましょう。

っていうか、毎度見てて思うんですが、学校は外部から評価をもらって改善した試しがありません

改善できないのは余裕と時間がないからです。地域の人も分からないことに対して評価できません。したとしても正確な評価じゃありません。(だって毎日見ているわけじゃないんだもの)

本当に大事なのは自己評価です。

『何のために』が共有されていれば、「ここは自分たちの活動として足りなかったな、次はどう改善したら良いかな?」と振り返り(リフレクション)ができます。

『評価というのは自己評価以外できない』のです。

だから、学校は学校で、地域は地域で、教育委員会は教育委員会で、もっと深くすると一人ひとりが…決まった目的に対して「改善できる点はどこだろう?次から何をすれば良いだろう?」が決まっていけば、確実に変わっていくものなのです。

最終的に一人ひとりがアップデートを繰り返すしかない

僕的に感じたことは最終的に一人ひとりがアップデートを繰り返して、『何のために学校に子どもを通わせる(通わせている)んだろう?』と共通目的をつくること。

これがコミュニティ・スクールで最も大事なことです。

これが決まるから、やっと学校の『忙しい』と言われる要因は見直され、必要なければ消されていくし、必要だったら手厚くなります。

今のまま『学校が学校らしくいると間違いなく滅びます』。

だから、最後の詰まるところはみんなが当事者意識を持って、
「何が起きているか知って」、
「何をしたいのか聞く余裕を持って」、
「自分に何ができるかを聞く(もしくは考える)」ことが大事。

あぁ、そうだ。僕はそういう人が作りたいから本を書いたんだ
って気付かされたのでした。