こんばんは、ソルティーです。
社会教育主事講習にて、またまた面白いことがあったのでシェアをします。
子どもたちにしっかりとした学びを提供しなければ…
ちゃんと指導しなければ…
カリキュラムをこなさなければ…
めあてを決めなければ…
といろんな「ねばならない」に縛られている先生は多いはずです。
たしかに一生懸命関わることで子どもたちはいろんなことを覚えることができるようになるし、安心でしょう。
しかし、安心は成長を阻害することもある。
実は子どもたちの世界に安易に踏み込まないという関わり方もあるんですよということを学んだので伝えていきます。
安心・安全の場は果たして良いのか?
安心・安全の場と叫ばれるようになってきましたが、安心・安全の場だけでは実は成長が起こらないことが多いようです。
人が大きな成長を果たす時は2つしかありません。
ものすごいポジティブなことが起こった時か、ものすごいネガティブなことが起こった時です。
このように人生において、自分の人生史を揺るがす出来事というのは後々の人生に大きく左右する出来事となります。
しかし、安心・安全の場というのは平坦なことが多く、感情の起伏がそれほど起こらない場所であることが多いです。
楽しいんだけど、人生を変えるような喜びや、悲しみに遭遇することがない。
もしかしたら、安心・安全の場というのは大人が整えてあげると、成長のない安心・安全の場になってしまうのではないだろうか?
そんなことを考えるのです。
プレーパークから見える安心・安全の場ではない学びの場
プレーパークというものはご存知でしょうか?
プレーパークとは自分の責任で自由に遊ぶ、本当に自由な公園のことです。
実は僕も子どもたちを連れてプレーパークに行ったことがあります。
そこでは普段禁止にしているようなことでもやりたい放題。子どもたちが騒いだり、砂場に水をぶっかけて泥だらけにしたり、危険な道具も使わせてみたり、怪我をすることもあります。
でも、そこでは怪我しても自己責任です。その代わり自由が約束されています。
禁止事項はありません。
ここでは何が学べるのか?というと、自分の頭や、身体から湧き出た気づきが連続して起こっていくことが学びとなります。
親の力を借りないので、基本的に自分の力で確実にできないことにはチャレンジしません。
例えば、ものすごく高いところに子どもは「登りたい!」といって登りたがるので、大人はついつい背中を押したりして、登ります。
でも、そうしてしまうと今度は『降りることを考えないで登ってしまう』ので、降りられなくなって、また大人の手を借りてしまう。
そうすると、自己肯定感が低くなってしまう。
本当は登る時に降りることのことも考えて、登るのが正解。
こういう危険がある時、自分で考えられるようになるのには、できてしまう人がそばで何でもやってくれると、成長や、思考の機会を奪ってしまうことがあるのです。
プレーパークはそういう点では本当に自由な学びの場なのです。
昔の生活スタイルから見える安心・安全の場を超えた学びの場
今思えば、昔の人の関わり方はプレーパークに似たスタイルでした。
なんでもかんでも大人が面倒を見なければならないなんてことはなく、常に大人は何か仕事をしていて、子どもたちはそのそばで遊んでいる。
でも、大人は子どもたちのやっていることには目もくれず、それぞれ独自の世界観を邪魔しないようにしていた。
ただ、あまりにも行き過ぎた危ない行為や、人としてやってはいけない行為が出た時にだけ『叱る』ということがある。
また、どうしても教えて欲しいことがあった時に大人に助けを求めることがある。
お互いの世界を邪魔しないというのは本当に大事なポイントだったんだろうなって思うのです。
子どもの生活にむやみに立ち入らない関係
今回学んだ社会教育では、このように放置には4つの形があり、プレーパークや、昔の大人と子どもの関係は
- 見守る
- 共にある
- 見て見ないふり
という関係であったんだろうと思います。
多くの人は放置=見守りと感じるようですが、見守るの他にいろんなやり方があり、それを駆使していたんだろうと思います。
また、最後の放っておくということも実は悪いことではなく、そもそも子どもの世界観に大人が踏み入れないということも、子どもの成長を促す大事な方法なんだなと思うのです。
逆に関わりすぎてしまうことで、子どもたちの可能性が狭まってしまうのであれば、関わらないという教育法もあるだろうし、僕の子どもたちはある意味、子どもの世界に関わらない育て方になっているんだろうと思います。
そうすると、実はめちゃくちゃ時間って余るんですよね。
余った時間、先生だったら何しますか?