ずっと前から思っていることですが、無反応というのは非常に怖いものだなって思っていたりします。
今回取り上げる無反応とは何か?というと、見ていない・知らないではなく、気づいているのに何も反応を返さないというもの。
「来ているな」「呼ばれているな」「読んだよ」
というのは、実際には反応を返していないにも関わらず、その人は反応を返している気になってしまっているという怖いものでもあります。
ちょっとしたことで、これは起こってしまうので、自分を戒めるためにも書いておこうと思います。
何かを創作する立場になると分かる『反応』
なぜ人は無反応になってしまうのか?
人は何か『行動』したり、『創作』したりすると反応を欲しがるようにできています。
子どもたちが「見て見て!」って言っているのと同じで、自分のやったことを見てもらいたがっているのかもしれません。
しかし、多くの人はここに『無反応』という行動をしがちです。
- チャットや、投稿があるのに無反応
- 新しい創作があるのに無反応
- メールが届いているのに無反応
- あなた宛のハガキや、連絡が来ているのに無反応
まぁ、それこそたくさんの無反応があります。
なぜ無反応になってしまうのか?というと、情報過多になり、頭がパンクしてしまうからではないか?と思うのです。
無反応すぎると当たり前の幸せが消えてしまうのではないか?
しかし、『無反応』で居すぎてしまうといささか問題が起こります。
無反応というのは自分を守る行動です。
しかし、自分だけが幸せであれば良いというわけではありません。
僕が昔、とある団体を率いていた時の話。
とある上映会を実施しようと思って、仲間、20人以上で行っていたのですが、LINEで呼びかけても、反応はありません。
「○○やりますが、皆さんはやりますか?」
「○○のミーティング、○○日と○○日、どちらが良いですか!?」
こういったすぐ反応が欲しいと思うことに無反応なのです。
そうすると、一生懸命やろうとしていた火が一瞬にして消えてしまうのを自分の中に感じました。
いくら呼びかけても反応がないというのは、
「やりません」「できません」「難しいです」と言われるより辛いことだったりします。
なぜなら、次の一手が決まらないからです。
難しいなら難しいなりにこちらで考えるのですが、やるのかやらないのか、できるのか、できないのかがこちらでは判断つかないからです。
しかも、それがほぼ全員だった時、リーダーというのは無力です。
そうした時に思う感情が「俺一人で全部やるのか」という気持ち。
その後すぐに湧き上がってくる気持ちが
「これはもう無理だ。やめよう」
反応を返さないというのは、今、一生懸命にやっている人を無力にする罪な行動なのではないか?と思ったりします。
自分はできているか?
そうした時に、今度は自分じゃないグループで、そういう行動をしないように心がけています。
特に自分以外が返していない時は尚更。
来た珠はすべて投げ返すくらいの気持ちでやっています。
そういう時、やっぱりグループは少なからず円滑であるように感じます。
ただ、どうしてもすべてを見れるわけではありません。
コメントを返せないというのであれば、そこには参画という意識ではなく、参加という意識になってしまう。
だから、返せないくらいだったら居てもしょうがないと思って抜けたりします。
大事なのは参画するための意識でいられるか。
返す気がないならそもそも入らないというのは、自分を守るためでもあるし、相手にも期待をさせないという大事なことなのかもしれないと思う今日このごろです。