子どもと一緒にチームラボさんのやっている光の祭に行ってきました。
カップルなど若い人がたくさん来ていて、僕自身も「すごいきれいだなぁ」って思いながら園内を歩きました。
しかし、一方で
「偕楽園の歴史や、コンセプトに合っていない」
「偕楽園が企業の金儲けの道具になっている」
というご指摘もあります。
うーむ、たしかに偕楽園と言えば回り方があり、表門から入り裏門に向かう、陰と陽を合わせもつ…など、そのデザイン性に心惹かれる部分があります。
今回のイベントは表門は閉じられており、裏門から入って園内を回って、裏門から出るというものでした。
たしかにコンセプトに合っていないし、徳川斉昭公を侮辱しているとも捉える人がいてもおかしくないかな〜って思ったりもします。
じゃあ、一体どういう風に考えるかと言った時に僕個人としては伝統をどう扱うか?というものだと思いました。
そして、その伝統は『今の社会に合わせて形を変えて残す』が最適かなと思います。
今回はそんな伝統という話です。
伝統はどうして大事なのか?
当時の凄まじい社会背景があって作られたもの
伝統がどうして生まれたのか?ってところなんですが、当時の凄まじい社会背景が影響しています。
生きるか死ぬかって瀬戸際のものから生まれたところが大きいんですね。だって前は刀とか普通に持って歩いていたり、日本国内で紛争が勃発していたわけですから。
その生きるか死ぬかのエネルギーの中から生まれたものだからこそ純度が高く、唯一無二の価値が生まれたのかなって思います。
一度失われると二度と再現できない
でも、そんなギリギリの世界観で生きている世界ではなくなりました。昔の人から羨ましがられる世界だと思います。
逆に『なんとなくでも生きていけちゃう』という世の中でもあります。そう思うと、昔のような純度の高い価値が生まれてくるか?というと、よほどの覚悟や、信念、覚悟がないとそういうものは作れない世の中であると思います。
そう思うと、伝統の歴史的価値は一度失われると二度と再現することができません。
例えば、ダマスカス鋼の精巧技法は今では失われてしまっていて、同じものは作れないと言われています。
なので、それに似せたものとしてステンレスが作られましたが、ダマスカス鋼を使った独特の価値は二度と作れないようです。
一言でいうと、いいカンジに不純物の混じった原料が手に入らなくなったから。
かつて「失われた技術」と言われたダマスカス鋼の秘密と、その顛末。
実はダマスカス剣の原料となるウーツ鋼のインゴット(塊)は、不純物を含んでいた。その不純物が偶然、美しい模様を形成するのに役立っていたのである。だから原料をとる鉄鉱石の鉱山が変わって鉄に含まれる不純物の成分が変わってしまうと、ダマスカス剣は作れなくなってしまう。
判っちゃうとだいぶ悲しい理由なのだが、要するに、作り方の技術が絶えたのではなく、ウーツ鋼の成分が変わって同じものが出来なくなったのだ。同じ作り方してるのに何で作れないんだよ…と、18世紀の職人たちは頭を抱えていたに違いない。
このように一回失われてしまったものは追い求めても二度と手に入れることができないのです。
仮にまったく同じものが作れていたとしても、同じものであるという証明ができないのです。
この辺りが歴史的価値になるのかなって思います。
伝統はすべてを継承することは不可能
ただ、伝統や、文化はなぜ消えるのか?ってことを考えると、伝統のすべてを継承し続けることは不可能だと思います。
人間は進化を求めるからです。つまり、改善をする。
だから、古いものとは決別して、まったく新しいものを作る。
だから価値が生まれる。
社会背景が変わり、求められるものが変わった
では、なぜ改善をするのか?というと、社会背景があると思います。
つまり求められるものが変わったということです。
昔は刀を持った人が大勢いたので、刀を作る刀鍛冶もたくさんいたでしょう。
今は刀を持つこと自体が禁止されているので、刀を作る刀鍛冶もほとんどいません。
なぜかというと、社会背景が変わったからです。
刀は普段使いでは、もう求められていないからです。
つまり、社会が変われば伝統も変わってしまう可能性があるのかなと。
大事なものがありすぎて全て抱えるのは不可能
また、大事だ大事だっていうのは分かりますが、優先度というものがあります。
人間に与えられた時間は一日24時間。それはみーーんな同じです。
大事だから何でも残そうって思えば思うほど辛くなる。
意味あるの?ってものまで残すことに躍起になってしまったら、本当に必要なところに手が行き届かなくなる。
だから、全てを抱えていくのは不可能だとまずは理解し、捨てる覚悟、変える覚悟を持たないといけないと感じます。
結局、本当に必要なものだけが残る
で、最終結論ですが、僕的には『今の社会に合わせて形を変えて残す』が一番良いと思います。
僕的には斉昭公がどうして斉昭公が偕楽園を作ったのか?というところを一番大事にしたい。一番受け継ぎたいところかなって思ったりします。
例えば、斉昭公が「学ぶだけではなく、よく遊びなさい。よく休みなさい」という考え方から偕楽園が作られました。
だから、偕楽園は「よく遊び、よく休めるところ」である。
斉昭公が弘道館と、偕楽園を作ったのは『一張一弛』という言葉を最も大切にして、そこを受け継ぐ。
だから、よく遊んで、よく休むだけだったら今回のイベントは大いに成功していて、仕事で疲れた、学習で疲れた身体や、心を癒やすには本当に良いイベントだと思います。
しかし、その裏で、夜だけしか偕楽園の良さが味わえない。昼間は楽しめないというところは斉昭公の考えと合っていません。
じゃあ、どうしたら良いかな?って考えて、話し合って次を作る。
たとえば、
なぜ伝統を守る必要があるのか?伝統を守りたいなら理由を説明できるようになるべき
地方の方言
土着信仰
地方の民芸品
などの中には、現代社会から価値が見出されず、なぜ守るべきなのか議論の対象になるものもあるかもしれません。
こういった伝統は、守る必要があるのでしょうか?
私はあると思います。それは「歴史」を研究し、明らかにしていくことが大事であること同じ理由になるのではないでしょうか。
「伝統」と同じように「歴史」も「金を使って研究する必要があるのか」「明らかにする意味があるのか」と思われがちです。
しかし、歴史を明らかにし後世に伝えていくことができなければ、日本人とは何なのか、どのような民族だったのか、どのような精神を受け継いできたのか、分からなくなってしまいます。
一見多くの現代人にとって「価値がない」と思われがちな伝統に関しても、同様です。
その伝統が残っているからこそ、過去から現代までどのような生活が営まれてきたのか、昔の人々がどのような考えをしていて、どのようなものを使い、どのような信仰を持ち、どのような芸術を持っていたのかが分かります。
つまり、たとえ現代人にとって価値がないように見える伝統に関しても、歴史的価値があるためしっかり守っていくべきだと思います。
そういう改善があって、本当に大切な伝統を残しつつ、新しい価値を作っていけるのではないかと思う。
これは学校も同じ。伝統や、文化を大事にしすぎて、「前年と同じで」となってしまったら、新しい社会に適合した形は一生作れません。
何が大事かを話し合い、残し、新しい価値を試し、改善する。
それがとても大事なことだなって思います。