今日は次男の卒業式。
残念ながらまーーったく勉強ができない子のままですが、人から好かれるタイプ。

彼の周りには上も下も関係なく人が集まってきます。
それもある意味才能だなぁ。

そんな彼がついに小学校卒業を迎えました。

卒業証書を受け取る次男
周りの子よりも頭1つか2つも大きさ違うので、まだ低学年に見える(笑)

今回もコロナ禍の中、それでも式は行われました。大変な状況の中、式を形にしてくださった先生たちには頭が下がります。ありがとうございますm(__)m

1〜5年生は事前に録画してあった動画で、実際には参列していません。

で、卒業式を見ながら「卒業式って何のためにあるのかなぁ」ってふと思ったりして、ちょっと自分なりに考えてみました。

※ちなみに卒業式にはみなさんが、いろいろな意義を見出していると思います。これは僕個人の答えです。

そもそも『式とは何か?』について考える

なんで式があるのか?式ってなんなんだろうか?そんなところから考え直してみたところ、こんな内容を発見しました。

卒業生に次のように問います。
「卒業式は行わねばならないと法律で決まっていると思いますか?
答えは「NO」です。法律には、「校長は、小学校の全過程を修了したと認めた者には、卒業証書を授与しなければならない」とはありますが、「卒業式を行わねばならない」とは書かれていません。

だから、校長先生から教室で手渡ししていただいてもいいし、郵送でもいいのです。ではなぜ保護者や地域の代表者、教育委員会の方を招いてわざわざ卒業式を行うのでしょうか?

それは「みなさんが支えて下さったおかげでここまで力がつきました」という姿を、感謝の意味をこめて披露するためなのです。

つっちゃんのミニネタコーナー -奈良県北葛城郡広陵町立広陵西小学校 

たしかに式であるからには何かの祝福であり、出発でもあるように感じます。

二十歳になったら成人式があるように、その成長した姿を披露するというのは間違いなく意味のあるものだと感じます。

僕たち夫婦が3回行ったドリプラ(夢の発表会)では、その課程にこそ意味があります。課程の中でいろいろな人と触れ合い、考え、導き出した答えを披露する場が発表会となります。

そこでは「私の夢はこう決まりました!!」と自信持って、堂々と発表する『姿』に「こう決まったのか」「頑張ったな」「自分の伝えたことがここで活かされてる!」

そんな想いをするんだろうなと。

『卒業』とは何なのか?

卒業とは、一応法律上では『全過程を終えたこと』と書かれていたりします。でも、いろいろなコミュニティに関わったりすると、『抜ける』と言った時にポジティブな意味合いを込めて『卒業』と言う時もあります。

しかし、終わりは新しい始まり。スタートでもあります。このスタートの区切りをしっかりと本人が『認識』する。

つまり、立志の意味合いも強いものなのかなって思います。

卒業証書を受け取る瞬間
このシーンが一番、関わってきた者としては染み染み来る瞬間

認識するためにはただ単に『証書』をもらうだけでは難しい。

認識のためには『何のために』を本人が自覚し、さきほどの式として姿を披露する。

だから入学式とは違って、卒業式は練習もする。卒業+式なのかなって考えたりしました。

意味のある卒業式ってなんだろう?

決まった形式は良いことなのだろうか?

では、これが最高か?って言われるとそんなこともないんだろうって思ったりします。

子どもたちが『言わされているように感じてしまう』旅立ちの言葉だったり、大人たちだけが考え、毎年同じように繰り返される言葉や、形

僕はこの卒業式を見るのが2回目です。そこには本人たちにしかない感動が必ずあることは分かります。でも、関わってきた者としてふつふつと湧き上がる感動は薄いなって思ったりします。

もちろん、卒業式の形が同じことで、システム化され、効率化され、カメラ業者の方が入りやすい形だし、卒業式を作る側としても楽になっているとは思う。

でも、それが『子どもたちが立派になった姿』を本当に見せきれているのか?というと、微妙な気がしています。

この感動が薄くなってしまう原因は関わりの密度が薄いのではないか?

それは家庭では子どもを育てている実感はしていても、学校と一緒に何か一緒に育てたって感じがせず、自分の子どもしか見れていない卒業式になりがちだからって気がします。

あの子とも話した。下の子たちがうちの子を祝福してくれている。周りのお父さんお母さんもこんな風にうちの子を育ててくれていたのか!

学校では先生たちもこんな風に子どもを育ててくれていたのか!
自分もこの子のこんなシーンがあったな、うちの子もこんなことあったな。

いろんな想いが相乗効果として湧き上がった時、なんとも言えない涙がこぼれたりするのじゃないかと。

⬆のことは理想だろうって思うかもしれませんが、僕が6年前に行ったいばらきドリプラ、まさにそんな感じでした。

家族も祝福してくれたし、周りも祝福、応援してくれた。それが自分のわがままな夢であっても、まさにそれが社会に必要なことだと、大きな自覚をして、「これから頑張ろう」って僕自身が強く強く決意できた瞬間でもありました。

練習が形式ではなく、『何のために自分たちは練習しているのか?』を考えることは本当に大事なことなんだろうと思ったりしますし、それこそ練習をせず、子どもたちだけで考えに考えた卒業式なんかがあっても良いんじゃないかと思ったりするのです。(考えたものなら自主的に練習もするかもしれない)

僕たち親(関わってきた人間)が見たいのは『成長した姿』
だったら、その成長したんだなって姿が最大限見たい。

形だけではない、本当の意味で「小学校やりきった。卒業したんだ」って本人も、周りの協力者も思える。

そんな卒業式になっていくために自分は何ができるのか?
それを考え続けたいなって思った今日このごろでした。