対話の先生塾にて『コミュニティ・スクールの在り方等に関する検討会議 最終まとめ』について解説しました。
会の中ではいろんな話が出てきましたけど、僕の中での大きな気付きもありました。それは…
「対話したくない権利が無視されている」
というもの。
うーん、たしかに新しい視点だ!
今回はその話を振り返りながら、勝手に考えていこうと思います。
そもそも対話とは何なのか?
そもそも対話とは何なのか?から入らなければいけないと思います。
僕の個人的見解で、対話とは『思い込みを外し、意味を明確にする話』を対話だと思っています。
ただ集まって話すだけだったら対話ではなく、会話です。
僕の中で対話はすごく大事なものだと思っています。
なぜなら、『生きる意味』を考えるからです。
人間は『なぜ生きているんだろう?』ということを感じて生きる生物です。
猫や、犬など身近な生物はたくさんいますが、「なぜ生きているんだろう?」なんて考えながら生活している動物はほとんどいないと思います。(会話できないだけで考えている可能性は否定しないけどw)
どちらかというと、本能の赴くままに生きている中、人間だけが『意味』を考えながら生きています。それは『知恵』とも言えるでしょう。
それを引き出すのが対話です。
対話をしてはじめて、自分が生きる意味が見いだせてくる。
それは人間として生きることの大切さを思い出させてくれるものだと思っています。
なぜ対話したくないのか?
では、なぜ『対話したくない権利』を主張する必要があるのか?
僕の個人的な主張をそのまま受け入れたと仮定して…、対話したくないという言葉を受け取った場合…。
「私は何も考えずに、生きている意味も考えたくない」
と主張しているのと同じなのかとちょっと考えてしまいます。
まぁ、さすがにそれは言い過ぎかと思いますが…、でも、考えることや、悩みを放棄してしまったら、人生の課題がなくなり、人生はつまらなくなり、成長も止まってしまうように思います。
じゃあ、なぜ生きているのか?という問いにどうやって答えるのかもちょっと聞いてみたいところでもあります。
対話はなぜ必要なのか?
対話は別に誰かとしなくちゃいけないのか?というと、僕はそうは思っていません。
自分との対話も非常に大切だと思うからです。
自分は何が好きなんだろう?
自分は何が嫌いなんだろう?
どんな人が嫌なんだろう?
どんなことをやっていると生きてると実感するのだろう?
このような問いを他人と対話することによって導き出しても良いし、自己対話によって導き出しても良いと思っています。
自分の中に生きる悩みは生まれないのか?というと、そんな人はいない。
逆に悩みがある人はみんな対話していると僕は思うのです。
対話しなくちゃ導き出せないのか?
対話というものの定義が『話すこと』に限定するならば、それ以外でも導き出せると思います。
でも、話すことではなく、考えることや、悩んでいることも含めて対話だと僕は思っています。
なぜなら、人は話さなくても無意識の中で考え続けているからです。
望もうが望まなかろうが人は考え、悩み続けている…つまり自分の対話をし続けている生き物だったりするんじゃないかなって思うのです。
ただ、まぁ、それは対話の区切り方の話しなので、そこは対話じゃないよって言われればそれまでです。
でも、生きる意味を考えるのであれば、きっと対話はみんなしているし、人間であるからこそ、対話はみんな必要だし、好きなんじゃないかなぁって思う…そんな今日このごろです。