ソルティーです。
ついに子どもたち(小学生組)の登校が始まりました。
茨城ではコロナウイルスが2週間以上、0人が続いているので、比較的安心な状態になってきた…とも言えるでしょう。
ただ、このコロナウイルスでの休校期間中、うちの学校はプリント課題しか出ませんでした。
新しい先生との会話もほとんどなく、プリント一色。
やらなかったというワケではありませんが、ハッキリ言ってまったく無意味なプリントになってました。
「とりあえず机に向かうというクセをつける」というものですが、机に向かうというのはそれほど大事なことなのか?というと僕は疑問です。
そもそも僕の学びは机から起こりませんでしたw
やる時は床にがっついてやってたし、寝っ転がりながらやったし、本はずっと肌身離さず持ち歩いて、隙あらば読んでました。
それくらい本気で学習する時は学習します。
むしろ本気でその子の学習を考えるなら机から離すべきと考えたりします。
これは宿題をしない子供に対して行う大人からのアプローチでも書いたことですが、ただプリント出してハイ終わりでは学びにつながらないってことです。
それで結局何が言いたいのか?というと、『子供たちがどうなって欲しいのか』を考えている先生は案外少ないのかもしれないということ。
いや、「子供たちのため」と考えている先生はいるんですが、自分が子供たちをどのように育てたいのか?そのために自分は何ができるのか?自分はどんな風に生きていきたいのか?というのが明確に言える先生は非常に少ないと思うのです。
例えば僕だったら、こんなに休校していたら、動画もあげるし、Youtubeもあげるし、ブログも書くし、一人ひとり連絡をとるかもしれません。
Googleクラスルームも用意するかも。
他にも大人たちの対話の場を作るってことも可能だっただろうし、外にでかけられない分、ネットゲームでキレイな景色をみんなで見に行こうというオンラインピクニックを企画したかもしれません。
もちろん、全員参加は無理かもしれない。でも、それでも良い。できないって子がそれで分かるからそこから支えることができる。
そういう取り組みは成績に関係ないかもしれない。でも、子供たちがして欲しいということなら用意もするし、手伝いもする。
逆に休校期間中でなければできないことはたくさんあったと思うのです。
その期間をプリントだけ…っていうのはどうも納得できない。先生たちは本当に子どもたちのことを考えているのか?ということにも繋がってきてしまうということなのです。
先生たちも一生懸命プリント作っているのも分かるし、コロナで慌ててしまっているのも理解できます。
でも、そこで一番困っているのは子供たちなワケです。
昨日、GEGかまくらんどというイベントで中・高校生たちと話しましたが、「やっぱり学校がないと寂しい」「先生ってなんだかんだ言って、僕たちの指針だった」という声も挙がっていました。
そういう点では先生たちが率先してコロナに負けない対応を一生懸命考える。その姿を見せていく。不測の事態に即座に対応するカッコいい大人の姿を見せる。
それが目指す理想の大人の姿として目に焼き付けられたのではないか…。
そう思ったりする今日このごろなのでした。