毎度第一・第三土曜日の夜に行っているオンラインでの対話の場、LHR-Learn Hack Room-。
今回のテーマは『教育者の学び』だった。
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まぁ、いつもいつもジャムボードをまとめることにいっぱいいっぱいになってしまうので、ちょいちょい場を突き刺すような問いをチャットで投げかけるのが最近のLHRの対応(笑)
※他の参加者が来た時に部屋に割り振るってこともあるしね
今回のテーマの結論とするとやはり『自身の気づき』が一番の学びであるということだった。
今回は自身の気づきについてちょっと話していこうと思う。
教育者とは誰か?
そもそも教育者とは誰か?という問いを投げさせてもらったが、僕自身はこれは答えがある。
教育者とは誰もが教育者になり得るということだ。
教育者と聞くと偉そうな感じがするが、学びが気づきであるならば、気付きを与えられる存在が教育者ということになる。
対話の中では
「子どもから教えられることも多いんですよね」
なんてことも言っていた。
つまり、子どもであろうが、赤ちゃんであろうが、おじいちゃんだろうが、犬だろうが、猫だろうが、教育者(気づきを与えられる存在)であるとも言える。
教育なんて偉そうな言葉を書くから誤解が生まれると思うのだが、教育ではなく、共育と考えてもらって良いだろう。
ただ、そこに存在しているだけで、良い人だろうが、悪い人だろうが気づきを与える存在になるのである。
体験はどうしてたくさん学べるのか?
教えられるのではなく、どうして自分から気づいたことは学べると実感できるのか?であるが、僕は『自身が課題感を感じたことと、仮説からの、(成功失敗関わらず)到達感を味わうから』ではないかと思う。
※ちなみにエビデンスとか知らん
教えられる学習はどうして覚えにくいのか?というと、『目的が薄い』からだと思う。
つまり、課題感がないのだ。
「これを覚えなければ何かができない」ということを自分自身で感じていない。
もしくは本当にその人にとっては必要ないかもしれない。
やる気を出すか、出さない以前の課題だ。
学校はしばしばこの課題に直面する。
子どもたちが目的を持っていないのだ。ただ単純に「いいからやれ」って言われるのである。
これを大人に言っても同じではないだろうか?
学校から強制的に「行け」って言われる研修の寝ている教員の多さ、聞いてない教員の多さ、メモを取らない教員の多さ、質問をしない教員の多さ…
これらとまったく同じことを児童・生徒にも強いる。
これは人の振り見て我が振り直せではないのだが、「あ、これはダメだな」って思うことがまず始まりだ。
できてないことに気づいて、どうやって「できるかもしれない」に変えていくか?
そのために仮説を立てて、実証する。
そして、成功しようが、失敗しようが関係ないのだ。
そこには必ず『気づきと学び』がついてくるのだから。
家と学校の往復をやっている限り学びは薄い
まず、そもそもなのだが、学校以外のスペースとの交流を持っていない人は学びのペースが非常に遅い。
なぜかというと、人は慣れる生き物であるのと、やったことないことは怖いからだ。
今求めている正解が見つからないのは、今まで試してきたものではないところに正解があるからだ。
つまり、ちょっとした冒険をしなければ見つからない。
まるでドラクエの前人未到の橋の向こう、海の彼方。
地図がまだ染まってない場所へと向かわなければいけない。
それは相当なリスクだ。
しかし、そのリスクを抱えなければ本当の学びはほぼやってこないだろう。
学校は今まで慣れきってしまった環境であるのと、残念ながら今はまだ周りがチャレンジを許さない環境してしまうからだ。
ちょっと勇気を持って飛び込む。
そこに最高の体験と最高の気づき・学びが待っている。
そういえばティーチャーズアソシアに来る先生も変革が激しい。
もちろん、全員ではないが、何かしらの気づきを得ているのは間違いないだろう。
こういうオンラインサロンなどにどんどん入って、どんどん手足を伸ばして、いろんな人と話し、自分は何をしたいのか?を見つけていくと良いと思う。
今回はそんなところで振り返りを終わろう。
なんかちょっと宣伝っぽくなってしまったが…、
今回はそんなところで振り返りを終わろう。
今日は皆さん、お楽しみ様でした。
では、また。