「僕はいじめによって一回死んだことがある。」

中学校の時、僕はいじめられた。

まぁ〜、ここまではよくある話だろう。

僕がいじめられたのは中学1年生の頃。

記憶が消える前。

僕は個人的ないじめと、集団的ないじめの2種類を体験した。

いじめによる攻撃

みんなね、分からんけど、それぞれ良い人だ…って思うんですよ。

だって今まで和気あいあいと話していたり、周りにいる人たちでさえも良い人そうに見えるもんなんですよ。

でも、最初いじめられた時は分からんかったんっす。

「なんで俺だけいじめるん?」

普段何気ない生活の中、僕以外の人には『優しい』と呼ばれるような人が、なんで『いじめ』なんてするん??

豹変する表情

人が群れれば価値観が変わる。

生きてきた環境が違うのだから、考え方も全然違う。

だから、群れたら弾かれる人がいるのも仕方ないのかもしれない。

分からないことは先生に聞く。

「どうしていじめをするんでしょう?」

すると先生はどうそれを受け取ったかっていうと

「いじめられているの?」

いや、そうなんだろうけど、欲しい答えはそれじゃないんっすよね(笑)

こうして始まったのはいじめは誰がやったか、いじめはどんな内容だったのか犯人探しなわけですね。

そして、みんなの前に僕を出させて、先生が一言こういうわけですよ。

クラスの前で立たせる

「ほら、どうして欲しいのか言ってごらん」

先生が僕に何言って欲しいのか分かるよ。

いや、でもね、これはアカンって。

みんなの前で『どうして欲しいのか言う』って、いじめられてた人にやらせてしまうのは酷すぎた

そんでこう思うワケですね。

(あぁ…これも一種のいじめなのかもしれないなぁ)

でも、いじめということに無関心ではいけない。

知らなくていいとか思っちゃいけない。

いじめられている本人はいじめられていると言えないし

いじめていると言っても理解してもらいにくいし

いじめている本人はいじめていると思ってないし

担任の先生は他人事だし

親や周りは気づいていないし

学校は隠したがるし…

そういうものが全部連鎖して、ある時を堺に

ドカン

と音もなく爆発し、人は死ぬ。

死ぬっていうのは自殺を選ぶんじゃなくて、別の人間に生まれ変わったということ。

つまりは記憶が消えたってこと。

今回はなんで僕の記憶が消えたのかってお話。

いじめられる側の子どもの性格

いじめというのはいじめる側といじめられる側がいるもんだ。

多くの場合、いじめる側にフォーカスされていくけど、僕はいじめられる側にもいじめられる特徴があると思うので、僕自身にもフォーカスを当てて話していきたい。

僕が住んでいたのは茨城県の某市。

茨城には自然がいっぱいあるんだけど、都会すぎることもなく、自然すぎることもないような場所が僕が生まれ住んだ場所。

僕の田舎の風景

僕が通っていた小学校はめちゃくちゃ田舎。

2クラスになることが滅多になく、学校まで家から歩いて50分ほどかかったりする。

小学生には大変な道のりだろうと思うかもしれないけれど、慣れるとそうでもなく、むしろ友達と一緒に過ごす道のりは幸せを感じる一時だった。

表に出るのは嫌い。3番か4番か、もしくはそれより後ろが好き

そんな自分の小学校時代は特に可もなく、不可もないという平凡な子ども。

テストでも悪い点をそんなに取ることはなかったし、先生から怒られるということをするわけでもなく、宿題もとりあえずこなしてくる。

好きなことはゲーム。

ゲーム

一人っ子だったこともあり、親からは大事にされていたが、肝心の僕は遊んでばかり。

2021年の現代っ子に近いですな。

外で遊ぶより、中。インドア万歳。

だから表に出ることはなかったし、リーダー的な気質があったわけでもない。

なんか困っている人がいたら放っておけないくらいの優しさはあったのだ…が。

基本的には誰かがやっていることにくっついていて、自分は後ろから2番…ではなく、3番から4番くらいにいたら良いなって思う人間。

むしろもっと後ろでも良いくらい。

「目立ちたくない。」

まぁ、そんな感じで後ろにいるのが好きだったのよね。

つまりは至って真面目で、特筆するところもあまり見当たらないような子ども。

全員が友達。小学校ではいじめられる気配はなかった

小学校の頃はとにかく友達が多かった。

1クラス40人だったので、人間関係が変わらなかったってこともあるんだろう。

男女関係なく、みんな仲良い存在だったなぁ。

この時はいじめられるどころか、みんなが僕の元に集まってきた。

「おーい、たかしんち行こうぜ!」

全国のたかしさんなら一度は言われるであろうこの言葉は、僕にとっては心躍る瞬間だった。

たかしんちいこーぜ!

昔から遊んでいた近所の一個上の幼馴染の友達も加わり、一斉に遊び始める。

自分の家は小さな秘密基地のような存在だったのだ。

男友達は自分の部屋の窓から入ってきて、いつのまにか溜まり場となっていく。

6畳間の部屋に子どもが毎日4〜6人はいるという状況が生まれ、それぞれがおもいおもいに過ごしている。

ある人はテレビゲーム。ある人は外でサッカーや、ドッチボール。

みんなで裏山や、川にでかけたりと、有意義な体験をしたと思う。

この時はこの後、僕がいじめられるなんて僕自身も含め、誰も思ってなかった。

中学校はいじめが自然と発生しやすくなる環境

自動で始まる先輩と後輩

月日は経ち、中学校に上がると、先輩・後輩という立場が急に加わってきた。

中学校は自転車で20分ほどかかる公立の中学校。

4つの小学校から集結する大きな中学校であり、1000名を超えるほどのマンモス校と言われる学校。

人が増えてくると、

『この人はこういうものだろう』

そんな風に合わせて生きたくなる。

それが大人という社会性に近いものなんだろうって思うけど、当時としては強烈な違和感だった。

だって、小学校までは1年生も6年生もあんまり関係なかった。

「みんな違ってて当たり前!だから助け合おうね!」

それができていた。

でも、中学校になったら急に先輩のほうが偉くて、後輩は付き従うものというよく分からないルールが『自動的に』適用されていたのだ。

そりゃ先輩のほうがちょっと早く入ったので、学校のことはよく知っている。

でも、人の存在価値にはそんなに影響しないはず…そこに『偉い』とか『偉くない』というものを言われてもいないのに存在価値にオプションを付けたがる。

そんなことだから1年生は2年生にビビり、2年生は3年生にビビり、3年生だって社会に出たら年上にビビってる。

謎のルール

こちらに選択肢なんかなく、しっぽを振るか、恐怖するか。

これを自然発生的にやっているんだなと。

周囲からの期待

期待ってのは悪いものではない。本人も期待されて悪い気もしない。

「人に期待しないほうが良い」ってよく言うけど…人間だもの、期待くらいするよね。

僕は中学校になった時に入ったのは陸上部。

部活は「まぁ、ぶっちゃけどれでも良いかな」って思っていたし、走るのはそんなに嫌いじゃないということで。

でも、始めてみたら結構速かった。

俊足である

先輩から

「きみ、速いねー!俺たちと同じくらいの速さで走れるなんて…これは今年の大会が期待できるよ!ゴールデンルーキー!」

とか言われたら、そりゃ誰だって天狗になりたくなるよ。許してくれ。

実際、100mを11秒に迫るほどのタイムを叩き出したりしていたので、めちゃくちゃ速かった。

「もっと速く、もっと速く!」

自分が早いと思い、努力もして、もてはやされるようになっていく。

良いループに入った。自分自身に大いなる期待をしていた。

もっとは人間のみが持つ欲求

期待を持たないってのはたぶん、嘘。

「こうなったら良いな」っていう期待がなかったら原動力なんて起きない。

期待しないってはがっかりしないための防衛本能だって思うほどだ。

ただ、そこを見て、うっとうしく思う人がいるのも事実なのだ。

練習中、サッカー部の人から手招き。

知り合いでもないのに、なんで呼ばれたのか分からず行ってみると

「おめぇ、ナマイキなんだよ」

は?

あなたは誰なの?

なんで怒られたの?

人は分からないものがあるというのは恐怖に変わる。

この人はやばい

めっっちゃ怖かった。

この先輩はこの会話のあと、二度と会話することはなかった。

でも、このインパクトたるや、天地が引き裂けるような想いだった。

冷静を装ってるけど、冷静じゃない。

そんなことは周りから見ても分かるだろう。

でも、よくよく考えたら目立ったことをしないほうが良いとも思ったのか、陸上のタイムも落ち気味に。

この時からいろんな歯車が狂い始めていった。

いじめがあっても仲良くしましょうという同調圧力

強制的に謝らせるのは仲良い証拠じゃない

なんかクラスって全員と仲良くしなきゃーって空気があると思うんだよね。

そりゃ、できれば仲良くしたいよ。

でも、僕らは人間だもの、合わない人が一人や、二人いたってしょうがない。

あの「ナマイキ」事件から、僕はというと気持ちが沈んでた。

その状態を元気づけたいのか、からかいたいのか分からないけれど、ある一人のクラスメイト、まぁ、S君としよう。

S君と一緒にいたグループが僕をからかい始めた。

給食の時、席をグループごとに向かい合わせにするのですが、S君の机までやってあげた。

「お前、何勝手に移動させてんだよ」

「もしかしてコイツ(僕のこと)、S君のこと好きなんじゃないのぉ〜?」

「やめろよ、気持ちわりぃ(笑)(笑)」

変ないいがかり

まぁ、なんてことのない会話。

でも、このなんてことのない会話が傷心の僕のハートをズタズタに引き裂いた。

さらに、テストで落書きをしていたところを数学の男の先生に見つかって怒られてしまった。

「あいつ、テスト中に寝てたみたいよ(ヒソヒソ)」

「何やってんだろうね〜(ヒソヒソ)

ヒソヒソは全部自分の悪口

なんか事実と違うことをされてる。

(見てないんだからしょうがない…)

怖かったのもあるし、特に言い返しもしなかった。

でも、その時からひそひそ、こそこそしている言葉がすべて自分をダメな人間だと噂しているような気持ちがだんだん高まっていった。

(なんでこんなところに自分はいるんだろう)

クラスから拒絶されると、世界から拒絶されているような気さえしてくる。

当時の僕にとってはクラスは世界全体だったんだと思う。

だって学校とこのクラスは毎日行かなければならない場所だったから。

僕が望んでいないのに、強制的に行かなければならないのだ。

自分がなぜこんな辛い気持ちになってまで、学校に行かなければいけないのか、本当にワケが分からなくなった。

でも、こういう時の大人ってすごいですよね。

すぐ察知してくれる。

「何かあった?」

担任の先生から呼び出されて話を聞いてくれた。

でも、話を聞いてくれただけじゃなくて、その後、クラス全体会議みたいになってしまった。

クラスの前で立たせる

先生は言う

「いじめは良くないこと」

「嫌な気持ちになった人がいるならそれは悪いこと」

「ソルティー君、みんなに嫌って言わないと伝わらないよ」

「一体誰に言われたの?」

先生は自分の気持ちを一生懸命伝えていた。

でも、それだけだった。

まだ、僕の気持ちはみんなに聞いて欲しいと思ってなかったのだ。

(先生、その助け舟の出し方は間違っている…)

確かに嫌な思いもした。

だけど、嫌な気持ちになったら悪いこととして確定していいのか?

そもそも、いじめって何を持っていじめなんだ?

嫌な気持ちになったら、相手も嫌な気持ちにしていいのか?

言ったら相手に何をされるか分からない。

そもそもみんなの前に立たせたりして自分に何を言わせる気なのか?

いじめるのやめてくださいと言えばいいのだろうか?

案の定だけど、いじめの本人たちは心の底から聞いていなかった。

「仲良くしまぁ〜す」

クラスの全員がそう言ってるわけじゃない。

でも、それでもクラス全員が信じられない気がしてきてしまう。

そしてなかったことのように日常のクラスに戻っていく。

結局日常に戻っても僕の心は戻らない

(世の中にはもっと辛いことが起こっている人はいる。でも、そんなこと関係なく、自分は今、とてもつらい。)

わだかまりが解けるどころか、自分で自暴自棄になっていく毎日。

眠れない。休みたい。むしろここから逃げ出したい

日常には戻ったけど、身体にはさまざまな異変が出るようになった。

ひどかったのは頻尿喘息

授業に入るとトイレに行きたくて仕方なくなるのだ。

「トイレに行かせてください」

トイレなんか出るはずねぇじゃねぇか!

でも、行ったとしてもまた行きたくなってしまう。

何度も何度も行くのは辛かった。

深夜の1時になったらなったで今度は夜は眠れなかった。

その理由が喘息。呼吸ができなくなるのだ。

4時間布団に入っても眠れないというのはまさに地獄

眠い。けど寝れない

いつも寝るのは3時になった。

(もうこのまま学校行きたくないなぁ)

この眠れないのが毎日になり、だんだん学校を休みがちになっていく。

(やすみたいやすみたいやすみたいやすみたい…)

ずっと心で連呼していた僕はあからさまな嘘を使って仮病を使うようになった。

朝、一生懸命に体温を上げ、なんとか学校に行かないように抵抗する毎日。

でも、喘息が苦しいとかは理解しているけど、親はなぜ休むのかをよく理解していないので学校に行かせたがってしまった。

「早く学校に行きなさい!」

もう、親からこんなセリフを毎日もらった。

親からの圧力

(もう死んだほうがマシなんじゃないか)

そんなことを考え始めて、自分を封じ込めるようになっていく。

学校に行きたくないという意思を持った人を学校に行かせるのは正義か?

笑顔も少なくなってきた頃、さらなる事件は起こってしまった。

それが突然記憶が消える病気『解離性健忘』だ。

この話をするとまた長くなるので次の記事を見て欲しいのだが、簡単に言うと

『起きたら別人になっていた』

みたいな感じだ。

あまりにもクラス、先生、親から受けるストレスが多かったんだと思う。

突然記憶は消えてしまった。

もう人間やーめた

クラスから孤立し、先生には理解されず、親や、家も頼れない。

世界でたった一人でこの恐怖と苦しみに立ち向かうのは辛かった

だから、昔の僕は全力で逃げたんだろう。

でも、よく自殺とかしなかったなって思う。

今はこんなに幸せに生きているのは、当時の僕が死なないでいてくれたおかげだ。

しかし、あの当時としては死んだも同然のことだ。

何も分からなくなってしまったんだから。

今、自分の子どもも「学校に行きたくない」と言っている。

僕はそれを見た時、「学校に行かない選択をした。不登校とは仮の姿で、人生という教科をやっているんだ」と理解している。

散々、自分が無理やり学校に連れていかれて苦しかったことを、自分の子どもにさせるのはおかしいなと思った。

親となってからは親の苦しみも分かった。

学校から「明日はどうですか?」と毎日連絡が来るようになった。

それが先生の職務だ、仕方ない。

でも、本当に大事なのは来るかどうかではない。

その子どもがどうしたいか?であり、それに寄り添うことだ。

ありあまる時間を使って、自分で何をするのか考えるというスーパー自由時間であり、どう生きるのか考える学習をしているのだ。

そういう風に捉えるようになった。

学校で必ずいじめは起こる。割り切れる人生感を持つ

今回の話を踏まえて、よく考えて欲しいと思うのは人が集まれば必ずいじめは起こるということを知って欲しかった。

いじめというのは価値観の違い

他の子には問題ないことでも、また別の子では問題なこともある。

出来事の受け止め方の違い

学校では全部統一、同じ価値観に染め上げようとする節がある。

でも、それをやればやるほど歪みは大きくなってしまう。

違っていても良い。

それが個性であり、違いであるのだ。

だから、そこを無理に変化させたりしちゃいけないんだと思う。

無理に変化させるから自分のように「必ず相手に合わせなくちゃ」と苦しむことに繋がってしまう。

自分は他人とは違う存在なんだってこと。

仲良くても違う存在。離別感

そういう考え方を持ってる人もいるんだってこと。

そう、割り切れる人生で良いんだってことが分かったら、トラブル発生は0にはならないけど、生きやすくなった

ということは、周りがやるのはその人自身の考えを尊重したりするほうがよっぽど重要だ。

ってか、そうなるとやれることは『話させる』とか『そばにいる』とかなんだろうなぁ…。

全部が全部うまくいくわけがないのがいじめの問題。

でも、学校ではきっと毎日、人知れず起こってるはずだ。

先生たちはこの辺り、胃がキリキリするだろうけど、一人ひとりの考えに向き合って欲しいな。