ソルティーの学生時代
解離性健忘症によって全ての記憶を失う
解離性健忘症って知ってますか?
朝起きたら突然記憶がなくなる
っていう今までの自分から解離して別人になってしまう病気です。
[aside type=”warning”]※同級生、上級生からのいじめによるストレスだと思います。[/aside]
たぶん、小学校時代までは明るく健康的に伸び伸び育ってたんだと思います。
そんな記憶がバチーンっ!って全部一気になくなりました。
[aside type=”warning”]※言葉以外が全部分からなくなって、家族の名前すらも遥か彼方にすっ飛んだので、かなり苦労しましたww[/aside]
その頃から、「人はなぜ生きるのか?」と中学生にして哲学賢者モード。
普通とは何だろう?生きるって何だろう?
そう考えながら生きるようになります。
解離性障害に興味がある稀有な方は、この本をどうぞ。
ゲームを通して人間関係を学ぶ
僕は記憶をなくしてからは引っ込み思案になり、出かけることができませんでしたが、唯一思いっきり外に出れる方法がありました。
それがゲームです。
ただ起きて、ただ寝るという日常で退屈な日々を過ごしている時に見つけてしまいました。
「これはなんだろう?」
そう、暇すぎて置いてあったゲームのスイッチを起動したのです。
記憶をなくす前の僕が置いてあったゲームはそのほとんどがロールプレイングゲーム。
つまり、冒険を楽しむストーリー形式のゲームでした。
記憶がなくなった僕が最初にプレイしたゲーム、スターオーシャン2
そこには善と悪、さまざまな人間模様が複雑に絡まりながらも、自分自身が主人公となって、外の世界を自由に旅することができたのです。
ゲームは悪だと思っている方もいるでしょうが、僕はゲームを通じて人と話すことで人間の感情を教えてもらったのです。
お約束のシーン
何が良くて、何がダメなのか?
理想の生き方、そして、弱い自分から段々と強くなっていくゲームの自分。
弱い自分と決別するために、少し前を向こうと思い、数ヶ月後に学校に向かえるようになったのでした。
理想の先生との出会い
僕が記憶をなくしてからは教室に行くことがありませんでした。
なぜなら友達も分からないから。
「よぉ、たかし!どうしたの?学校来ないの?」
この言葉は結構怖くて、相手は僕を知っている。僕は相手をまったく知らないという状態なんです。
なので、どのように対応して良いか分からず、隠れるように学校に行きました。
こんな状態でなぜ学校に行ったのか?というと、何をするべきなのか分からないので、とりあえず「やれ」と言われたことはやっていたという感じです。
たぶん親も何をさせて良いのか分からなかったのと、学校に行ったら記憶が戻ってくるのではないか?という一縷の望みがあったのかと思います。
ただ、学校行くには行くんですが、笑い声や、ガヤガヤが怖くて、昇降口の入り口がまるで地獄の門のように思えていた…なので、忍者のように抜き足、忍び足で侵入。
最終到達地点は『相談室』と呼ばれる部屋。生徒の悩みを聞く部屋なのですが、ほとんど人は来ないので学校にある僕専用の小部屋みたいなものでした。
この部屋で何かするわけでもなく、ずっと本を読んだり、空や、校庭を眺める日々。
「この先、どうやって生きていこうかな」
そんな悩みを聞いてくれたのが相談室にいた相談員のM先生。年も近いと感じるくらい若かったので、教育実習生だったのかもしれません。
先生特有のお硬い空気感。この先生はそれがまったくなく、僕をクラスの生徒ではなく人間として見つめている気がしました。
そしてM先生は僕が何か学校の勉強とはほとんど関係ないことを頑張っていたとしても、褒めてくれました。
まったく勉強とは関係のないゲームの小説を創る!みたいに頑張ってた時も
「すごいね!続きが読みたいよ!」
先生の似顔絵を描いて見た時も
「すごい!家に飾るね!」
こんな風に僕の自己肯定感を高めてくれました。
正直、M先生がいなかったら自分の存在価値を見出すことは学校ではできなかったかもしれません。
学校の勉強をやったか、やってないか?でしか僕の頑張りを認めてくれない職員室の先生たち。
一生懸命、僕が学校に行く。たったそれだけなんだけど、それが非常に難しかったあの時。
出席日数は増えましたが、通知表はオール1。学校の評価制度では僕自身の価値が見えてこない。
でも、M先生だけは「今日も会えて嬉しいよ。よく来てくれたね。」と言ってくれたんです。
僕の見えない努力を唯一察してくれる先生でした。
最終的には年度の途中でM先生はいなくなってしまいましたが、『相談室に行く』。
それだけはできるようになっていました。
高校で自己肯定感が増す
学校では教えてくれない社会経験を得る
通知表はオール1でしたが、文字だけは頭から消えていなかった僕。
さすがにそんな成績では引っかかるワケもなく、高校入試は全部落ちましたが、
「作文で入れる高校があるみたいなんだけど挑戦してみる?」
「そんなチャンスがあるなら、人生をかけたい!」と思って、学力で測らず熱意を伝えて入る通信制の高校、水戸南通信高校に入りました。
この学校では「個性を大切にする」、「学力が全てではない」という教育方針があるようです。(大人になってから水戸南高校の校長だった先生と偶然話したら聞けたことw)
そこでは同年代はたった3人。ほかはちょっとお姉さんだったり、10歳以上も歳が離れた人がクラスメイト。
そこで、たまたま後ろに座ったクラスメイトSさん(当時30台の方)とゲームの話で盛り上がり、すごく仲良くなりました。
Sさんは仕事の話、お金の話、恋愛の話、将来の話など学校では教えてくれない生きるために必要なことを教えてくれました。
むしろSさんは僕の生きる指針となってくれて、僕が歩む人生の一歩先を同じ目線で見せてくれました。
一番のエピソードはカラオケ。
僕は表現が苦手で、クラスの隅っこにいつもいるような引っ込み思案な子でした。
Sさんはカラオケが好きでスーパーロボット大戦系の熱い熱い曲をいつも熱唱!僕はいつもただ聞くだけ。座りっぱなしという状態。
何10回と誘ってくれた時、「塩ちゃん、もうそろそろ疲れたから歌おうよ〜。」と言ってくれて、渋々歌ったのですが、
「すげぇうまいじゃん!」
とめちゃくちゃ褒めてくれて、僕の隠れた才能を引き出してくれました。
そこから引っ込み思案だったのが嘘のようにカラオケを週3で行くというハマりっぷり。自由に表現をするということの大切さと楽しさに気づいていきました。
自分の中の才能に気付く
自分で勝手にハマって見つけた才能
カラオケでハマりまくっていた僕ですが、携帯を与えてもらってからはオンラインゲームもやるようになっていました。リアル以外の人との交流は当時はものすごい刺激をもらって、学校以外の勉強をさらに加速させてくれました。
その影響もあって、魔法のiらんどというサービスでブログを開始。
今はもう見せられないほどひどい内容ですが(笑)。
この時は「また記憶なくなると困るから」という理由だけでつけていたブログですが、段々やればやるほどハマってゲームをやっていた影響もあって、操作自体はスムーズでそこそこのブログにできていました。
運営を続けると「もっとカッコいいのを。もっとキレイなものを」と望むようになったのですが、ガラケーではどうしても限界があって、「パソコンも必要なのでは?」と始めてみるも、何から手をつけていいか分からず挫折。
一生懸命頑張りましたが、学力も赤点スレスレ。
この時、いろんな紆余曲折があったのですが、大学のだの字も頭になかったので、バイト先の先輩に紹介してもらってパソコンの専門学校へ行くことにしました。
勉強が社会にどんな影響を持っているかが分かり、本気で勉強にハマる
そんな感じでパソコンの専門学校に行き始めた僕。
なぜパソコンの専門学校に行ったかというと
「HTML学んで本格的なウェブサイトつくれるんじゃね?」
なんてあっさりした理由からでした。
しかし、今まで赤点スレスレの良いとこなしのソルティーでしたが、パソコンの専門学校に行き始めて、勉強しなくてもほぼ点数が100点を取れるように!
「今までゲームで何となく見ていたものが分かる!なるほど!」
例えばゲームでよく255が最大の武器攻撃力だったのは8進数を使っていたから。
この時、「ゲームも誰かが作ったもので出来ているんだ。」と改めて認識でき、ゲームの延長線上で学びをするようになりました。
今までどんなに勉強してもまったく面白さが分からず、ただ課題をこなすだけだった僕が、教科書に書いてあることが理解できるんですね。
目的を持ち、自分の趣味の延長線上にあったパソコンの勉強に打ち込むようになります。
あんなに勉強が嫌いだった僕が家に帰ってからも勉強し、一日中小難しい情報処理の本を持って、電車の中でも、休みの日も勉強をしている姿は親にとってみれば「なんか急に目覚めちゃった」と思ったことでしょう(笑)
そのおかげでプログラミング技術者の登竜門と言われている「基本情報技術者」なんて国家資格も取りました。
意外と難しいので、今やれって言われたらたぶん合格できないと思います(笑)
同世代の友達もでき、「学校って楽しいんだなぁ」って感じられたのもこの頃でした。
卒業試験では、ドット絵からストーリーまでオリジナルで作ったファミコン画質のオリジナルのファイナルファンタジーを作りあげました。
この時が一番自分のためになった勉強でした。むしろ、今までの勉強したことは全く覚えていませんw
今だから思うと、自分で主体的に学習した内容しか、学びには繋がらない。どちらかというと、学びをどう自分の目的に結びつけるか?のほうが重要だったなと思ったのでした。